ここに描かれた縄張りは、『武教全書 中傳四 築城』の「山城縄張の事」
に描かれる山城そのままで、馬出や二ノ丸・三ノ丸の取付き方もまさに軍学書
通りである。
描法からすると、本絵図の描かれた時代は江戸中期以降と推定され、縄張り
そのものについては疑問の向きも無い訳ではないが、絵図中に記載のある佐瀬
与兵衛、岡本甚五兵衛、古田四郎左衛門の3名のうち、佐瀬与兵衛については
加藤氏家臣であったことが知られ、本丸北の大井戸が確認されるなど、ここに
書き込まれた内容は無碍に捨て去ることには躊躇せざるを得ないものがある。
一方で、塗屋町・杉田町が城下の中心であったのは伊達氏との抗争時代のこ
とであるにも拘らず、箕輪館や松森館といった重要拠点が然程意味を持たされ
ておらず、本宮館・猪子館・栗ヶ作にいたってはその描写すらない。さらに、
当然のこと、本絵図から想定し得る縄張りは加藤氏の改修以前ということにな
るが、『正保絵図』に示される加藤時代の改修以降の縄張りが改修以前の縄張
りより不鮮明な形状のものになったとは考え難い。また、天守台背面の石垣が
土塁とされ、本丁谷の欠落、鶴屋丁が混在など疑義も少なくない。また、地形
上相当な急勾配や段差のある部分をそれと意識した描写にはなっていない。
とはいうものの、本絵図を地形図上に落としてみると、そこには丹羽氏整備
後の縄張りと妙に合致する点が認められ、絵図作成の時期や目的は明確ではな
いが、余程現場を知っている者が描いたものと推定さる。少なくとも、そこに
示される書き込みは、絵図作成時期には何らかの記録が伝えられていたにも拘
らず、現在では既に失われた言の葉で、その内容には充分に注意を払う必要が
ある。たとえば、絵図としての正確さは欠くとしても、郭内の水路は『明暦頃
城下絵図』や『元禄絵図』にも描かれていることであり、栗ケ作山が竹田口ま
で延びている様子はやはり『寛文絵図』でも確認されることには充分留意した
い。
正保三〜四年(1646〜1647)の作成とされる本絵図は、これまでのところそ
の素性が明らかにされる最古の城絵図と考えられてきた。しかし、それは軍事
的内容を包含する絵図としてのこと。全体をそのまま信用するには大変な危険
が潜んでいるということを前提として取り扱う必要がある。とは言え、最も信
憑性の高い史料の一つであることは言を俟たない。実際のところ、本絵図に描
かれた本丸周辺の石垣は発掘状況とよく一致しており、本丸と乙森の中間に存
在した「此間崩六間」と記された見附石垣も発掘されている。本丸後背部の石
垣が描かれていないのは、調査時に薮や土砂に埋もれていたことによるもので
あろうか。
本絵図を前出の『会津郡二本松城之図』と比較すると、城郭主要部の構成が
ほぼ一致していることは前述の通りである。そうしてみると、『会津郡二本松
城之図』が後世軍事的教書の意味合いを込めて中世城郭のサンプルとして描か
れた可能性も考えられることになる。
何れにしろ、本絵図に描き込まれた特記事項には充分注目しなければならな
い。特に「三ノ丸」の位置とそこに描かれた建物や井戸、ならびに箕輪門の描
写などに注目したい。
また、南観音丘陵(絵図下部分)北側に沿って配置された寺院群にも留意が
必要である。
本絵図は年季を欠き、制作年代を特定する根拠は何も見つけられない。絵図
全体の特徴は、
@その描写範囲が本丸を含む馬蹄形の丘陵に囲まれた郭内に限られる
A本丸の周辺に二丸、三丸を配する
B本丸内、三丸脇、三丸下の平場に井戸が記される
C各切り通しに棟門と思しき門が描かれる
D番所が四角で描かれる
E居屋敷の記述
F松坂切り通し脇の台所丁町筋の変更
G一ノ丁から二ノ丁の武家屋敷地内を馬場へ流れる未整備な水路
などである。
このうちEの「居屋敷」の呼称は『正保絵図』と『寛文絵図』に共通の呼称
で、それ以降は見られない。また、本丸の井戸は『寛文絵図』のみに見られる
もので、発掘の結果、殆ど使用されることなく埋め戻されたものである。さら
に、三ノ丸下に描かれた井戸は元禄以前の情況を示している。それに加えて、
Gの未整備な水路を描いているのは、本絵図以外『会津郡二本松城之図』が唯
一である。
そうした状況から推察するに、本絵図が描かれた時期は、城下普請の始まっ
た慶安三年(1650)以降、普請が成就する明暦三年(1657)以前ということ
になろう。その描法からしてもこの時期のものと推測される。
本絵図では、上記の特徴の他、居屋敷上部に位置する侍屋敷の門および石垣
ならびに平場の描写にも注目しておきたい。竹田丁外の瓦小屋は用意されてい
ない。
本絵図は浅野文庫所蔵の『諸国当城絵図』との原図とも考えられるもので、
『諸国当城絵図』の記載事項は全て記されており、更に書き入れは詳細に及ん
でいる。絵図中には寛文四年(1664)に大学和尚が開山した松岡寺が描かれる
他、『光重年譜 三』に延宝三年(1675)に現在の瀧沢に移転したと伝えられ
る大隣寺が向原の地に描かれていることから、その作成時期は寛文四〜延宝三
年(1664〜1675)のこととされる。すなわち、本絵図は丹羽氏による城下町
整備が一応の完成をみた時期の二本松城下の様子を伝えるものと考えてよい。
『諸国当城絵図』が軍事絵図ともいうべきものであることはよく知られると
ころであるが、そこでは細部における記載が省略されているのに対して、本絵
図は軍事上の重要拠点と本丸との関係が相当程度正確に記されている点が重要
である。
また、地形との関連で見ると『正保絵図』以上に正確で、丹羽氏整備の二本
松城下の様子と中世末期の二本松城下の様子を結び付ける上で最良の史料とな
っていることにも注目する必要がある。特に「さくまえ」の記述位置、発掘調
査で確認された「本丸井戸」、地中探査で確認された「本丸背後の大井戸」、
松坂の切り通し脇の台所丁などに注目したい。
なお、『二本松城事蹟考』によれば竹田口の城門は「東奥口構堀致土橋築建
二階門事」と伝えられていることから、丹羽氏最初期の正規の虎口は竹田口で
あったものと推測される事も注意を要する。
本絵図については『寛文絵図』を後世になって縮小版としてより絵画的に描
き直したものと推定されるので詳説は略すが、書き直した時期の実状に合わせ
た修正がなされているものと考えた方がよい。誤記も少なくない。作成年代は
寛文四〜寛文七年(1664〜1667)を然程降らない時期と思われるが、『正保絵
図』の存在といい、本絵図の存在といい、この時期に幕府は何度となく斯かる
城絵図を提出させていたものと類推される。
本絵図も屋敷地拝領絵図と呼ぶべきものであるが、年季欠く。しかし、松坂
の切り通し近くの敷地の拝領者の変化や会所の位置などの検討から、本絵図が
寛政三年(1791)以前の作成であることは疑いの余地がないばかりでなく、瀧
山甚助あるいは大谷与兵衛、成田弥左エ門、梅原弥五左エ門、中井小右衛門と
いった人たちの屋敷地拝領替え・退転を考慮に入れると、本絵図の作成年代は
元禄期(1688〜1704)を降らないものと考えられる。因みに、会所と蔵屋敷の
間の道は元禄絵図のように南の道路まで貫通はしていない。描法としては本絵
図以降共通の特徴が見られる。
ところで、本絵図の最も注目すべき点は御城御殿や諸門、蔵や番所などの様
子が具体的に描かれていることであり、数多く残る絵図の中でも城内の建築物
の様子が示された絵図は本図が唯一のものである。この絵図によって城内の建
築物が草葺あるいは板葺であったことが知られる。当然のこと、『寛政絵図』
に見られる竹田丁外の瓦小屋は用意されていない。
本絵図は、二本松史談会が複製した大正15年の故水田荘助氏の模写で、その
中に書き込まれた人名の分析から、原典は元禄時代(1688〜1704)末期に作成
されたものとされている。
屋敷地拝領絵図とも呼ぶべき絵図で、この種の絵図としては本絵図が最古の
状況を示すものとされている。郭内を中心とした武家屋敷地と稲妻型の往還に
沿った足軽屋敷地ならびに町人町の空間構成がよく分かる。
なお、『正保絵図』で南観音丘陵北側に沿って配置された寺院群が丘陵南側
に移されていることにも注目したい。
本絵図には「寛政三辛亥年四月寫」と「文化七庚午年正月寫」の二つの年季
が書き込まれている。すなわち、文化七年(1810)の屋敷地拝領替えに先立っ
て描き写された絵図であるが、その原典は寛政三年(1791)以前に描かれたも
ので、『寛政三年御家中覚』との照合から、本絵図に描かれた内容は寛政三年
を更に溯るものと考えてよい。竹田堀の外側に瓦小屋が整備されていることか
ら類推すると、宝永二年(1705)から同六年(1709)の大火の後か、明和四年
(1767)ならびに同七年(1770)、天明六年(1786)の何れかの大火の後に描
かれたものであろう。
本絵図で注目すべき点は、城内外諸門に対して箕輪門が特別の意味を持って
いたことを窺わせる他、度重なる大火に備えて竹田丁外の瓦小屋が用意されて
いる。その他、用水路の表現も特筆に価する。なお、絵図中における本町谷御
殿の初出でもある。
なお、本絵図は二本松藩棟梁頭取を勤めた松田喜右衛門が残した諸記録と内
容を照合する上でも貴重な史料となる。
本絵図も屋敷地拝領替えに関連する絵図で、絵図中には天保三年(1832)普
請の櫓門と堀をもつ坂下御門が描かれていると同時に、久保丁御門・内大手・
鉄砲谷御門・馬場先御門・本町谷御門・谷口門などの諸御門が棟門に変更、整
備されているのを確認することができる。また、御城下新町の通りに学館・手
習所、鉄砲谷に豊姫様御屋敷・長屋門を持つ御座敷方屋敷・長屋門を持つ御役
所が設けられ、桜馬場跡地に会所が移されているのをみることができる。松田
喜右衛門が残した諸記録に見られる整備状況がほぼ完成の域に達しているもの
と考えられる。そこに示された内容から文久年間(1861〜64)の状況と推定さ
れる。
なお、学館の新築は文化十四年(1817)、久保丁御門が棟門の形式に改修さ
れたのが天保五年(1834)十一月のことであった。
本絵図も屋敷地拝領替えに関連する絵図で、それを二本松史談会が複製した
もので、原典は、そこに示された内容から文久年間(1861〜64)の状況と考え
られている。『文久三年以降慶応二年以前絵図』[市川正一氏蔵]とほぼ同一
内容である。
『弐本松御城郭全図』[明治期版行]の原典と考えられる絵図で、幕末期の
藩の施設が明瞭に示される。特に、丘陵、石垣や枡形、居住区域、寺院配置、
往還、用水、田畑といった城下の空間構成が明瞭である。
ところで、この絵図に限らず多くの絵図が、本丸後背部にその意識を払って
いないことが判るが、それはそのまま二本松城下の歴史的経緯、すなわち会津
の支城として尾根伝いに強固な連絡網を確保する意味合いが強い中世的城郭か
ら、経済優先の近世的城下町への移行を物語っているものと思われる。
本図は、丹羽長聡氏蔵の『幕末期城下絵図』を基に明治になって描き直した
ものと推定されるが、一部手が加えられ変更されている。ただ、箕輪門と坂下
門以外の諸門が全て冠木門として描かれている点に疑問が残る。
丹羽長聡氏蔵の『幕末期城下絵図』を基に明治になって版行したものと推定
される。絵図の内容は、文字を活字に変更しただけのものである。
本絵図は、明治三十年(1897)から大正六年(1917)にかけて、子供時代の
記憶にあった事どもを、当時の古老に校正してもらったものである。そのよう
な性格から、絵図そのものの信憑性を云々するよりは、「人々の記憶に何が残
ったか」という視点から観るべきものであろう。そのよう視点から、本町谷上
の裏門が柵門、新丁と六ノ丁の間の見附の石垣、鐘撞堂へのアクセス道路など
は注目に値する。このような少年期の記憶は、地形図的・物理的な正確さは欠
くものの、人の心に強い印象を与えてきたものとして、別の重要な意味をにな
っていることに留意する必要がある。