依怙都市目次へ戻る

郭内武家屋敷地と郭外町人町の町割と旧奥州街道



慶長六年(1601)以前の二本松城下

 これまでの調査研究の結果、中世における蒲生氏統治時代の二本松城下は、
江戸口より若宮丁ならびに坂丁とその切通しを抜けて、城下の中心部である杉
田丁および本丁に入り、中丁から福嶋道へと、恰も街道集落のような町並みを
形成していたものと推定される。元和八年(1622)十一月の『大内休庵・神主
主馬助覚書上』(新編会津風土記)には伊達藩との抗争に際して「酉年ノ霜月
十五日に・・・本町杉田町に火ヲかけ」と記されているが、『山口道斎物語』
では「只今の塗屋町杉田町」とされているところから、会津芦名三忠士の一人
金上遠江守盛備が慶長六年(1601)に蒲生氏から二本松塗屋坊二千石を賜る以
前は本丁と称していたことになる。すなわち、慶長六年以前のこの町筋は二本
松城の大手へ繋がる町並みを形成していたと推定される。新城館への登り口を
後世になって本町谷と称しているのは、新城館と本城との密接な関係を著わし
ているものと考えられる。
 慶長九年(1609)、それまで二本松城の西側山麓に通じていた往還が、二本
松城の東側に移され、奥州街道が成立した。すなわち、箕輪門前を往還が通る
ことになった訳である。経緯からすれば、本丁谷・鉄砲谷をそれぞれの大手と
する二城代が置かれた後、そこに奥州街道が設定されたことになる。当初、城
の西側の守りを受け持つ新城館と西側を受け持つ松森館という役割分担が期待
された二城は、奥州街道に向かう一城でよいことになる。事実、西城の本山河
内の後を受けた外池信濃守が、寛永三年(1626)に東城の本山豊前が死去した
後は、一万三千石で東城・西城を統括している。
 しかしながら、この時期の普請に関する具体的な状況は依然不明のままであ
る。唯一蒲生氏統治時代の二本松城下を描いたとされる国会図書館蔵『会津郡
二本松城之図』の信憑性が確かめられない現在、俄かに断定はし難いが、内閣
文庫蔵『正保絵図』をみたとき、坂丁切通しを抜けた後の道筋に少々不自然さ
が残る。本来の奥州街道は本宮館の裾(杉田丁)を通って大手前の本丁に到達
したもので、観音丘陵沿いの道筋は後世の改修になるものであろう。

中世奥州街道と二本松城

 慶長六年以降寛永二十年(1643)の丹羽氏入府以前の状況についての変化は
不明であるが、丹羽氏入府時の状況は『正保絵図』に詳しい。

加藤明利入府時代の二本松城下

 慶長六年の蒲生秀行再領以来、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門の二城代時代、
元和八年(1622)の本山豊前・同河内、さらに一城代二戻った外池信濃守を経
て、加藤明利が二本松城に入府したのが寛永五年(1628)であり、その後寛永
十八年(1641)に明利が死去するまでの二本松城下の整備状況は明確にはされ
ていない。
 蒲生氏の統治時代の城普請に対して『丹羽家分限帳』が「城地築直シ御本丸
石垣落下ヶ而箕輪并処々石垣ニ築直シ箕輪御門再建、コノ地ニ御大手石垣土塀
出来并大手取直シ候得共」と伝えているのは、この時期本丸そのものよりも大
手の変更が重要な意味をもつようになってきたことを示したものであろう。本
丸の石垣を取り崩し、それを利用した普請であったことが窺える。
 また、往還についても「奥道之儀ハ未タ杉田町、若宮通行ニ而有之」のよう
に続けて記し、切通し内に通じていることを匂わせている。
 こうしたことから、『正保絵図』に描かれた状況は蒲生氏による城下整備の
結果と考えてよい。
 なお、『正保絵図』では本丸と乙森の間に位置する見附石垣の崩落が示され
ているが、整備途中で崩落を放置するとも思えないので、意図的な取り崩しか
城郭整備後ある程度の年数を経た結果と考えてよかろう。

 ここで『正保絵図』に描かれた町割と慶長六年以前に想定された町割とを比
較してみると、大きな変化が生じていることが判る。すなわち、本来は大手前
を通っていたと推定される往還が、地形的には必然的に谷筋となる低地に移さ
れ、道が武家屋敷道と町人町筋とに分離、観音丘陵の外側の開発整備とあわせ
て北条谷・北条谷入り口部分・福嶋口の新町などの整備が急ピッチであったこ
とが判る。こうした整備の進展は蒲生秀行再領直後の二城代一万五千五百石か
ら寛永四年(1627)松下石見守重綱の五万石への増加が必然的に引き起こした
ものと考えられる。二本松城下の基本的骨格ここに生まれたとみてよい。
 なお、新町における往還沿いは町人町であり、北条谷の殆どが「深田」と記
されていることに留意したい。また、この時点での寺院配置をみると、龍泉寺
を除いた全てが観音丘陵の内側で本丸と対峙する形となっている。すなわち、
この時点での城下町の空間構造は、中世の馬蹄形丘陵地に囲まれた城郭の意識
を拡大したに過ぎないことを示している。
 しかし、観音丘陵の外側の開発整備をみると、北条谷入り口部分や福嶋口の
新町の往還沿いに面を埋め尽くすような整備と異なり、観音丘陵を東に包み込
むような展開を見せ始めていることにも留意する必要がある。この展開が丹羽
氏による城下町再整備の段階で特殊な空間構造を造り出す発端ともなるのであ
る。

加藤明利統治時代の奥州街道と二本松城

丹羽氏による城下町の整備

 寛永二十年(1643)八月、十万七百石の丹羽光重が二本松に入府するが、三
万石の加藤明利の城下に十万余石の大名がその家臣団を引き連れて入府した訳
であるから、城下の狭さが如何計りのものであったかは想像に難くない。『雄
藩雑話』は次のように伝えている。
   長役の家来を長屋に指し置き座舗も宜仕置候 勝手は大方莚を敷き居間
   は竹をあみ根太を渡し薄べりの様なる畳を敷き小身の者は多く土間に罷
   候由
 このような状況の基、光秀は早急に城下の拡大に手を染める必要に迫られた
のであろう。『光重年譜 三』の伝える処によれば正保三年(1646)の項の末
尾の「今年月日不知二本松城郭手狭ニ付絵図ヲ以テ寺社及商家ヲ郭外江移シ易
ル事ヲ老中マテ告タル趣ニ相見エル」という状況になった。
 二本松城下の普請経営は慶安元年(1648)七月(『光重年譜 三』)に始ま
ったとされるが、実際には慶安三年(1650)のことではなかろうか。同じ『光
重年譜 三』は慶安三年の項に次のように伝えている。
   今年七月ヨリ商家及寺社ノ地ヲ郭外ニ移シ山ヲ開テ道ヲ通シ土ヲ穿テ湟
   ヲ深シ城郭ヲ広テ侍屋ヲ其郭内江置石壁ヲ崇クシ門戸ヲ大ニスルノ経営
   ヲ始 此成功明暦三年ニ至テ全ク成就
 また、この普請に関する幕府から許可が下りるのは慶安二年のことである。
   一慶安二年六月
    家光公御治世二本松御郭内之儀ニ付御願有之 光重公江 公許之御奉
    書左之通
      以上
     二本松城山内之町屋山外移之其跡致侍屋敷事北条谷耕作之地侍屋敷
     ニ仕事西白川口切通之所立門事南之方従先規切通之道二ヶ所構土手
     町之通路ニ仕事東之方町口切通ニ被致往還之道事東奥口構堀致土橋
     築土手建二階門事南白河口北奥口芝土手枡形築之事絵図之通新規普
     請仕度由及 上聴候処以連々可申付旨被 仰出候可被得其意候恐々
     謹言
      慶安二丑                  阿部豊後守忠秋
 これに先立つものとして『丹羽家分限帳』の「奥道之儀ハ未タ杉田町、若宮
通行ニ而有之」の一文が注目される。少なくとも丹羽氏が二本松に入府した直
後は『雄藩雑話』が伝えるように家臣の居住スペースを確保することが急務で
あり、縄張りの修復どころではなかったものと推測される。そうした状況の中
にあって、奥州街道の付け替えこそが最優先されるべきであった。
 この奥州街道の付け替えにともなう城下町普請は、明暦三年(1657)になっ
てようやく成就したであろうことが『光重年譜 三之附録』に見えている。
   二本松境地狭く御座候付御老中得 上意町屋を外かわへ出し右町屋之外
   田畑を地形ニ仕立侍共今年ニ至迄住宅申付候事
    明暦三年六月廿五日      丹羽右京太夫留守居 中川介右衛門
                             志水与兵衛
     永井弥右衛門様
 奥州街道付け替えと町割拡張における普請は相当に大規模なもので、さらに
   二本松之儀加藤民部大輔居城其前々より小身成城主居館ニ付侍共指置可
   申地らいも無御座候故奉得上意町屋をくるわの外江出侍屋敷町割等仕候
   に堀普請いたし町屋江の出口三ヶ所侍町之内ニ而一ヶ所以上四ヶ所岩石
   之所を道長百三十間余或七八十間或六十間山きりぬき候高四ヶ所共ニ十
   三間より六間迄切通上ニ而横廿間より九間迄道はゝ五間より三間迄新切
   通しを付申候侍足軽等迄差置申候ニ地らい無御座故田畑高弐千石余程永
   代のつふれに仕候家中侍共右之段々ニ而困窮仕候付夫々ニ材木金子米等
   遣屋作申付候尤町屋相立候ニも右同前ニすくひ申候事
と伝え、家臣団之存亡を賭けた大事業だったことが忍ばれる。
 このような状況を経て、近世二本松城下の完成をみる訳であるが、この期間
中ずっと城の縄張りに手を付けた様子はみられない。城の縄張りに手を付けた
最も古い記録は寛文四年(1664)三月の『古御奉書』で「二本松城南東之間山
下外曲輪石垣三ヶ所破損」したために修理の許可を願い出たものである。ここ
で言う「山下外曲輪」がどこを指しているのかはいま一つ明確にはされない。
しかし、『寛文絵図』には本丸と乙森の間の見附の石垣が描かれているので、
この時修復に当った可能性も否定できない。

『正保絵図』部分

『寛文絵図』部分