依怙目次へ戻る

寛政期における水路の復元

 二本松城下の用水路の基本的構成は、寛文年間(1661〜1673)から徐々に
整備され、元禄年間(1688〜1704)には殆ど完成の域にまで達していたもの
と推定される。
 その後、寛政期(1789〜)に入る以前に幾ばくかの改修が行われている。本
町谷を流下した用水路が北側道路沿いの用水路のみを受け持ち、南道路沿いは
本宮館外側を流下する用水路に接続させ、中央を流れる用水路は廃止されたの
か描かれていない。一方、竹田口外では根崎町から三森町への用水路が追加さ
れている。この中央部の用水路が描かれていない理由は、『天明元年(1781)
安達郡杉田組六町大概書抄』の竹田町、根崎町、三森町の条に記される、
   町内用水堀 先年ハ御家中よりかゝれ候所近年ハ一切流不参候
という情況に尽きるのではなかろうか。殆ど機能していない様子が窺えるので
ある。『めつら敷を記』は、
   一 寛政五丑年七月竹田町用水皆出来
と記すが、この情況は『文久三年以降慶応二年以前絵図』においても全く変る
ところがないので、どこまで有効であったかは疑問である。
 また、北条谷の用水路については、何れの時代の絵図にも描かれていないの
は如何なる訳であろうか。

『寛政絵図』部分

 その後、天保三年(1832)六月二日に久保丁の坂に大手門新築の願書が出さ
れ、幕府の許可を得て工事に掛ったことはよく知られる処である。その時の様
子は『長富公記』によれば、
   天保三年公許しを得、新に石壁塹壕を城下久保町に築造す
   天保五年十一月新に多門を城下久保町に築く
と伝えられる。この多門の前面の堀は『二本松城大手門図』に見られるとおり
であるが、この大手門新築に先立って久保丁内大手から大手前面の堀まで、坂
道の改修と同時に用水路が整備され、途中防當御門の枡形下に用水池が新設さ
れたことが『久保丁坂改修絵図』(松田大輔氏伝来文書)および『久保丁坂測
量絵図』(同前)より知られる。

『久保丁坂改修絵図』部分

『久保丁坂測量絵図』部分


明治中期における水路の復元

 明治元年(1868)七月二十九日、戊辰戦争の戦火は城中はもとより郭内すべ
てを炎に包み、その後の二本松の町並みは町人町の維持によって後世に伝えら
れることになる。

明治期字限図・『二本松藩史』附図による水路復元図

 そのために、『明治十五年岩代国安達郡二本松町地籍字限絵図』では郭内は
描かれておらず、その後の水路の整備情況は、僅かに『二本松城沿革誌補遺』
によって次のように伝えられるだけである。
 (明治五年)ソノ水路ノ修繕区域ハ
   十四分       両成田
   十六分 十三分 若宮町ヨリ亀谷町マデ田中前堀分水共
       十三分 竹田町根崎町油井村塩沢村共

 明治三十一年四月七日ヨリ同年五月二十日迄ノ二合田水門修繕工事記録中ニ
   抱岳下村大字成田字二合田水門及ビ田中堰水門塩沢分水口ヨリ西谷迄水
   路延長八百二十間 堀土工深一尺 樋柵造設 土堤堀筋修繕
 トアルノハ 前述ノイハユル御郭内二ツ分ノウチノ修繕ナリシナルベケレバ
  ソレニ西谷ヨリ七ノ丁ニ至ル約十丁ノ水路ニ筋分ヲ加フレバ 郭内分ダケ
 ハソノ大概ヲ知リ得ラレベク 市街地ノ分ハ ソノ全長即チ約三十丁位ナル
 ベキカ
 また、『同補遺』はこれらの分水が何れも二合田水門からのもので、同水門
の上流には上堰分水があり、岳の水源池から二里二十町、さらに上堰分水から
鎌研石源水と合わさり伊佐沼を経て長橋に至り、その後中江川に流下する分が
加わるとして、この水道の二本松町における重要性を指摘している。


『昭和三十三年地籍集成図』による用水路の情況

 昭和三十三年に現在の地番に変更するための台帳的な集成図が作成されてい
るが、この集成図の基本的内容についてはその後大きな変更を受けてはいない
ことから、この集成図を基として現在の水路を調査した。
 その中で、明治期までの用水路と現在の水路とではその設置目的ならびに存
在理由おいてに大きな差異が見られる。すなわち、明治期までの用水路は給水
が目的であり、現在は排水が主たる機能になっている。
 とはいうものの、江戸期における生活用水は一般的に上流から木樋で水道と
して引かれるか井戸を穿つかであるが、二本松城下で独立して木樋の水道が完
備していたかどうかは疑問である。部分的な樋の使用については、「四つ谷入
口樋有り」とか「浮内樋有材木等上よりられ被下六町高割人足」(『天明元年
安達郡杉田組六町大概書抄』)のような記述から推測されるが、四つ谷入口の
樋は長さ僅かに三間巾ニ尺五寸程度のものである。これは往還の下を暗渠で通
水するためのものであろうと推測される。
 一方、昭和三十三年の地籍集成図から確認される用水路は、上流こそ用水路
として活きているものの、市街地に入ってはまったくドブと化して、雨水排水
および雑排水の処理用としてしか意味をなさないようになっている。

『昭和三十三年地籍集成図』による用水路の情況