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絵図・字限図を用いた土木史的景観の復元


 二本松城下の水路に整備に関する記録は余り多くはない。その大半は絵図に
よる描写に頼らざるを得ない。いま、絵図の表現上の信憑性を問わないことに
すれば、最も時代を溯ることができるのは『会津郡二本松城之図』ということ
になる。この絵図に描かれた水路は、『明暦頃城下絵図』にも描かれており、
この地が馬蹄形稜線内では最も低い土地であったことを示している。
 その後の『寛文絵図』ではこの部分の水路は描かれていないが、描写全体の
様子から、この水路が武家屋敷の中を流れているため省略されているものとみ
られる。『元禄以前城下絵図』では、武家屋敷地を区画する水路として明瞭に
描かれており、さらに武家屋敷地の区画整理が進んだことを思わせる。このよ
うな水路の整備は丘陵に囲まれた二本松城下にあっては特別の意味を持ってい
た筈であるが、実際には殆ど明らかにされていない。そこで、元禄期には一応
基本的骨組みとしての水路の配備は完成したものとして、その時期の水路を復
元し、さらにその後の変化を追ってみることにする。

元禄期における水路の復元

 二本松城下の用水路の整備は、その立地が三方を丘陵地に囲まれているとい
った特殊な条件から、湧水池でもない限り満足な水源を得ることが難しい。僅
かに、本丸の東北部分に水源らしきものの痕跡は地中探査の結果認められては
いるが、それは城下を普く潤すためには余りにも微少に過ぎる。
 各時代の絵図をみると、城内に幾つかの井戸の記を認めることができるが、
これらを纏めたとしても生活に必要な水源を確保できるとは思えない。事実、
『天明元年(1781)安達郡杉田組六町大概書』の竹田町の項には次のような記
録が見える。
 一 町堀用水 先年より御家中より水かゝり候所近年水通セス
この記録の内容は『寛政絵図』に示されるまさに時期の様子であるが、その記
述と比較することによってそれ以前の様子を類推することができる。
 すなわち、明暦三年(1657)には城下普請は成就され、『寛文絵図』に描か
れたような塩沢から竹田堀への用水、龍泉寺から箕輪門前を経て竹田堀への用
水、瀧沢から町人町を亀谷登り口へ抜ける用水、現在の六角川との四つの水源
が確保されていた。それぞれの用水は元禄年間(1688〜1704)には「御家中よ
り水かゝり」というように、充分に機能していたものと推定される。

 ところで、中世二本松城下の様子は今のところ概念的にしか確認されず、具
体的な姿を描写する史料は殆ど発見されていない。そうした中で、『会津郡二
本松之図』は、描写そのものの正確性は疑わしいが、その中に盛り込まれた記
述内容には留意すべき点が多々認められる。『寛文絵図』には何も描写されな
いが『明暦頃城下絵図』や『元禄絵図』には明瞭に表現される馬蹄形稜線内の
水路もその一つであり、『伊達治家記録』他の史料を総合して得られた知見か
ら確認される一筋の城下を通過する道路(奥州街道)もその一つである。
 いま、馬蹄形稜線内の水路について考察すると、この水路が流下している土
地は、馬蹄形稜線内では最も低い土地ということになる。すなわち、雨水排水
を考えた場合には、この水路が環境を維持していく上で非常に重要な役割を担
うことになる。それにも拘らず、『寛文絵図』には描かれていない。また『寛
文絵図』には一ノ丁から二ノ丁へ抜ける道路沿い両側の用水路が描かれていな
い。この点には大きな疑問が残るが、水源確保のための本管ともいうべき用水
路だけを描いたものとすれば納得できる。しかしそれにしても、同絵図の敷地
割りをみると、この水路が必ずしも活かされた区画割りをしているようには思
えない。その後の『元禄以前城下絵図』や『元禄絵図』では、この用水路は武
家屋敷地を南北に分割する重要な役割を担わされている。このように考えてく
ると、寛文年間(1661〜1673)には未だこの水路周辺の整備は完了していなか
ったものと推定される。
 そこで、今一度この水路の整備情況について考察してみることにする。
 丹羽氏入府による城下整備のなかで、二合田用水路の献策者は山岡権右衛門
(『二本松城沿革史』)、測量には当時吾国随一の算学者と謳われた磯村文蔵
が当ったと伝えられるが、その普請に当った時期については異説があり、『相
生集』では万治年中(1658〜1661)と記し、『磯村家累代之墓』の墓誌(善性
寺)では正保四年(1648)とする。竣功時期については俄かに断定することは
できないが、『相生集』や『磯村家累代之墓』の墓誌の記録を以って城下すべ
ての用水路が完成したとするのは早計に過ぎるようである。明暦三年(1657)
に成就したのは、「西嶽の浄泉(俗に大水門という)を府下に呼ふ水道弐里は
かり」(『相生集』)というように、西嶽に湧き出た水を城下まで引き込み、
当初は馬蹄形稜線内を流下する水路に接続させるまでの事業ではなかったかと
推測される。その時の最初の分水が、本宮館の上部における城外を館に沿って
流下する水路と城内を流下する二本の水路で、何れも本町谷で合流し、先述の
水路に接続される。
 それと同時に、南側の街路に沿って用水路が整備されている。すなわち、往
還を移した処から先に整備がおこなわれたものと推定される。

『明暦頃城下絵図』部分

 この谷筋に連なる水路の完成をみて、まず武家屋敷地を稜線内の二筋の街路
沿いに移し、往還および町人町との分離を計ったものであろう。この時期の様
子は『寛文絵図』に示されるような情況であったが、主要用水路は稜線内の中
央を流れていた水路から内馬場から竹田口へ東行きする道路の北側沿いに移さ
れ、竹田口外の同心町の整備も完了している。この時の用水路は、塩沢口から
竹田堀へ一本、本宮館で一度分水するが再び本町谷で合流し竹田堀へ一本、瀧
沢から町人町を東へ一本、さらに南側田地を流れる川筋が一本整備されたこと
になる。『職例秘要 郡奉行一』(江戸中期の内容を収録)には、
 一 二合田水分之割
   一 御郭内ヘ  弐ツ
   一 町方へ   壱ツ
   一 両成田村へ 壱ツ
   一 表塩沢村へ 壱ツ
とみえているが、この分水量の比較からすると、寛文期(1661〜1673)の分水
之割がそのまま後まで活きていたものと推測される。
 なお、この時点では宮下の下屋鋪は造られていない。

 『元禄絵図』の姿が完成する直前の様子を示しているのが『元禄以前城下絵
図』である。この絵図によれば、当初からの水路は、はっきりと区画割りの責
を担わされることになった。その結果、郭内を流れる用水路は4本になり、内
馬場から竹田口への通りの北側沿い用水路はその北側一列の武家屋敷地、中央
の用水路は同通りの南側の1区画、松坂口から竹田口へ抜ける通路沿いの2本
の用水路はそれぞれの側の区画を受け持つ形になった。すなわち、武家屋敷地
はそれぞれの水路に沿って一列に配置されたことになる。この時期の様子も恐
らく『職例秘要 郡奉行一』の記す「二合田水分之割」が使用されていたこと
であろう。
 因みに、『元禄以前城下絵図』には宮下の下屋鋪がすでに描かれている。

『元禄以前城下絵図』部分