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歴史的視点からの二本松市街地再整備計画


 本提言は、歴史的視点を切り口にした都市整備の手法の一端を示すもので、
実際には他の数値データと如何に組み合わされるべきかが重要な問題である。
しかし、親が子供達に語って聞かせられる故郷とは、その故郷の成り立ち、歴
史的変化であり、その変化への親達の対峙の仕方であり、それが誇りと呼べる
記憶の継承でなければならない。親世代と子供世代が共通の話題として語り合
えるもの、それが故郷である。

二本松城址整備計画に関する提言

 二本松城内の平場は、別紙【時代別推定資料1〜6】に示すように、時代と
ともに可なりの変動が認められる。しかし、あくまでも『明治23年字限図』を
基本に各時代の城下絵図によって推定したものであり、正確なものではない。
各時代の推定図を重合わせた縄張線(エッジ)が錯綜する部分は縄張確認の発
掘調査、平場として重複する部分は何らかの建物跡があるものとしての発掘調
査が必要と考えられる。
 また、二本松城の最大の特色は、中世の馬蹄形をした典型的な山城が、軍事
上基本的姿を失うことなく、近世城下町へ変貌していく姿がつぶさに捉えられ
る点にある。さらに、寛政期から幕末期における城下の様子は相当程度の正確
さで把握しうることも認識しておく必要がある。
 特に、本城の石垣発掘調査が穴生積石垣を検出すると伴に、蒲生氏統治時代
の石垣をも検出するに至っている。それに拠って中世末期の二本松城の実態を
探る手掛かりが与えられたことは大きな成果である。そのことに鑑みて、史実
と異なる整備への意識の集中よりは、発掘調査が果たす役割をと史実を掘り起
こすことの重要性を充分に認識し、その上で慎重な整備計画を検討するように
提言する。
 すなわち、城山の保存修景整備に当たっては、各平場毎に時代の推移を認識
し得るような整備計画を、一ノ丁に面する部分(箕輪門を含む御城・御内所屋
敷・新御殿・本町谷周辺など)は寛政期以降の江戸時代末期を視野に入れた整
備計画を提案する。
 但し、今回の整備計画が、城山に限ること無く、久保丁坂を含めた馬蹄形城
郭という特色をも視点に入れた整備計画にまで拡がりを期待させるものであり
たい。
 歴史的な町割りが悠久の時の流れを語りかけ、急激な経済発展と大型資本投
資による社会的破綻から救ってくれていることに鑑み、史実を基本としたeco
-city 的な都市開発を進めるにことが重要と考える。その切り口として、「歴
史的な都市の遺産の活用」を前提とした横断的補助金申請の手法を検討する必
要がある。

二本松城址整備に関する提言の基本姿勢

1.二本松城下の歴史的景観の認識

  ・中世二本松城は馬蹄形の稜線を防御施設とする山城で、本城と四つの館
   からなっている。
   1)  城址公園に中世遺構として本城・新城館・松森館・本宮館があり、
    これらの遺構は手つかずのままである可能性が大きい。
   2) 猪子館は既に開発の手が入っているが、箕輪館および竹田町坂まで
    の観音丘陵一帯は中世遺構が残存する可能性が大きい。
   3) 本城には伊達氏との抗争時代の遺構と思ぼしきものが発掘されて、
    様々な情况を推し量ることができる。

  ・城下町の本格的整備は四段階に分けられる。
   1) 伊達氏との抗争時代。本城は物見櫓程度。
   2) 『正保絵図』に見られる加藤氏以前の城下。
       本城に中世の山城的建物。
       箕輪門は草葺の棟門で多門櫓にはなっていない。
       三の丸御殿は檜肌葺または板(コケラ)葺と推定される。
       観音丘陵外側の町家整備と観音丘陵に始めて切通し(後の久保
      丁坂)をつける。
   3) 丹羽氏入府以降の整備。本丸としての体裁を整えるための準備過程
    と近世城下町の整備。
       御城御殿は草葺または板葺。
       各城門は草葺または板葺の棟門。
       池ノ入の切通しによる栗ケ作山の分断。
   4) 寛政年間以降の城下整備。
       久保丁大手の城門ほか、各城門の整備。
       屋根付御門から冠木門の時代を経て棟門(寛政期史料−松田大
      輔氏文書−が棟門に冠木門の名称を継承する理由)。
       箕輪門が現在の多門櫓の形式をとるのは江戸の中期以降。
       『元禄城下絵図』には箕輪門は描かれておらず、『寛政絵図』
      では瓦葺の渡櫓門らしきものが描かれる。すなわち、箕輪門は元
      禄十一年以降寛政三年以前に再建されたものと推定される。

  ・城下町としての町割りを現在に伝える。

   1) 水路および地割を含めて、概ね、江戸時代後期の町割を伝える。
   2) 西谷御門から鉄炮谷御門までの間、箕輪門前の学館他の施設は平面
    の確認が相当程度に可能である。
   3) 奥行きの深い敷地のうち前面道路に依存する部分は奥行き30m程度
    である。
   4) 内畑を介在させた上で展開させる露地の活用は今後も有効性を期待
    し得る。
   5) 道路管理を含めた当時のコミュニティーは、現在の社会活動の基本
    的単位を構成している。
   6) 街内道路の基本的役割が、地域内交通から都市間交通へと変質して
    いる。降時代が降るにつれて矮小な敷地が増加。

2.遺構に関する認識

  ・上記四つの時代の遺構が錯綜している。
   1) 中世の本城には物見櫓(八角形の可能性)および小屋(一間四方)
    程度と推定。
   2) 中世の山城的建物(土壙の位置から物見と広間?を持つ建物と推定
    される)。
   3) 天守閣造立の頓挫(加藤氏転封による蒲生氏系譜の築城は終焉を告
    げる)。
   4) 丹羽氏入府による近世山城的縄張り整備。本丸整備は明暦3年江戸
    城天守焼失により途中計画放棄。
       この時期より、経済優先の本格的近世城下町の建設へと大きく
      姿勢を転換。
   5) 三ノ丸には加藤氏以前の御城御殿、丹羽氏入府直後の御城御殿、寛
    政期以降の御内所様屋敷と結合した御城御殿の遺構が錯綜している。
   6) 大御所様屋敷および姫様御屋敷などの確実な遺構は確認されない。
   7) 箕輪門は基本的に想像物に過ぎず、その原型は坂下御門となる。
   8) 鉄炮谷御門西の周辺は役所および会所が存在したが、幾度かの移転
    が<確認されている。

  ・平場ごとに時代の推移を示す遺構が確認される筈であるが、現状では未
   確認であり、今後、石垣・土塁の確認が必要。

     時代毎の平場・石垣の推移については、各時代の絵図を基にして推
    定図を作成しているが、あくまでも絵図は正確な位置を示すことを目
    的とする地図とは目的を異にするため推定の域を出ず、正確な判断は
    今後の発掘調査に待たなければならない。

3.整備計画は本物を本物と確認することから始まる。

  ・本物の歴史を後世に伝えることこそプライドの形成に役立つ。

  ・歴史的遺構から成り立つ当時の具体的姿は、各人の追想像に委ねること
   となる。そのためには、無為な構造物は造らない方が良い。

  ・歴史的遺構の活用は豊かな創造力を産む。

   1) 二本松の四つの時代をそれぞれ表舞台に。
    発掘調査計画および発掘経過そのものを教材ならびに観光資源に。

   2) 四つのそれぞれの時代に対応した復元的建造物を追想像の世界(仮
    設舞台)に。
    a) 本丸の活用の可能性。
       1・ 中世の物見櫓。
          八角形の物見櫓の可能性もある。
       2・ 蒲生氏統治時代の野面積石垣と山城的建築物。
       3・ 加藤氏以前の穴生積石垣と縄張。
          天守成立前期的建物の可能性あり。
       4・ 丹羽氏入府以降の石垣。
           当初は生活可能な本丸の構築を企図していたものと推
          定されるが、徳川の治世が安定期に入ると、本格的山城
          はその軍事的意味を徐々に失っていく。
   b) 城址公園全体の活用の可能性(追想像と事実認識)。
       1・ 蒲生氏統治時代以前の侍屋敷地の景観。
       2・ 丹羽氏入府以降の縄張・石垣整備の情況。
       3・ 寛政年間以降の城郭・建築物整備の情況。
       4・ 天保年間久保丁御門建設以降の城下町再整備とび箕輪門前
        の学館等諸建築物。

4.「二本松城址保存計画」策定の前提

  ・中世末期の各舘跡がほぼ手つかずであること(本宮舘は除く)。

  ・中世末期から近世初期の縄張が確認できること。
   1) 場所毎に重視される年代が異なることに留意する必要があり、特定
    の時代に対象を絞ることが困難である。
   2) 遺構そのものが要求する保全形態を検討する必要がある。

  ・中世末期から時代を追って石垣が随所に確認できること。

  ・城址だけでなく箕輪門周辺の江戸時代の町割が可なりの程度で復元可能
   なこと。

  ・江戸後期の城内建築物の様子が知り得ること。

  ・二本松城址は対象となる敷地の大部分が市有地であること。
   1) 残存する地下遺構を保全するには絶好の条件である。
   2) 調査・保全方法が市民の夢を助長させるものであること。

  ・駅から商店街を抜けて城址に至るまでのアクセス道路がそのまま歴史の
   路であること。

  ・何よりも市民が二本松城をこよなく愛していること。

  以上のようなことを鑑みるに、「二本松城址保存計画」の策定は「歴史的
 まち造り」の大きな第一歩として重要な意味を持つものと考えられる。

  ・城址公園の活用は都市計画の一環として位置付けられる。ヒューマンス
   ケールへの回帰へのキーワードとなる。
   1) 城址公園だけの孤立した視点に偏った施設整備計画は避けるべきで
    ある。
   2) 久保丁御門、竹田堀は城址公園に匹敵する歴史的空間拠点である。
   3) 歴史的拠点内通過交通の排除と歩行圏の確保。

  ・[考え方の例]個々の補助金申請は面的結合を。
     駅(跨線型階上駅+医療・文化等複合型公益施設)
     →本町通り商店街(傘の要らないショッピング・スクエアー)
     →本町通り久保丁御門前をフェスティバル・スクエアー化
     →久保丁御門(公園化)
     →久保町坂(環境共生住宅街)
     →郭内(地区計画対象誘導型住宅地域)
     →城址(歴史的コミュニティー道路)

     竹田堀公園整備→根崎丁、竹田丁整備の核

  ・三つの核(城址公園・久保丁御門・竹田御門)を用いた空間の再編成。

  ・等高線に沿った用水整備と雨水用水路の浄化。
      城下町時代の用水路は二合田用水からの引水が城内および郭内の
     武家屋敷地内を、二伊滝からの引水が観音丘陵外側の町人町を受け
     持っていた。

  ・切通しの傾斜地(特に久保丁坂、鉄炮谷)は良好な雰囲気を残し、環境
   共生・省エネルギー型住宅地建設の最適地となり得る。

    [例] 久保町坂整備計画  久保丁大手の復元・公園整備化
                            (文化財整備)
        久保町坂の歩行者優先道路化      (触れ合い道路)
        久保丁坂途中の防當御門復元        (観光開発)
        久保丁内大手の復元を視野に入れた箕輪門までの道路整備
                         (歩道など道路整備)
        二本松城内公園整備 仮設建築(史実に基づく御殿)による
                 祭り会場の設営      (観光課)
        歴史の触れ合い広場(文化財整備)     (発掘調査)
        駅から二本松城内公園まで
          歴史の散歩道             (観光開発)
          歩行中心の商店街整備(横のデパート)(商工観光課)
          久保丁大手を核とした商店街整備   (商工観光課)
          長方形敷地の活用    (Eco-cityプロジェクト)
          商店街内の高齢者住宅推進プロジェクト(住宅課)
線路沿いを基本とした駐車場+道路計画(道路拡張整備)

『差図などの建築関連資料』(『松田大輔氏所蔵文書』中の史料)
   本町谷入口御門・学館手習所・番所・鉄砲谷御門会所差図・鉄砲谷旧会
   所差図・学館東並びの武器蔵および的場・久保丁大手枡型地差図(久保
   丁坂の復元と作亊小屋への入口の確認)・防當御門地差図・久保丁坂地
   差図・御賄所・御内所屋敷・裏御門建地割・御坂物見・御城屋敷差図・
   某所冠木門拾分壱建地割