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丹羽氏における近世二本松城下の整備


 前項において丹羽氏入府以前の二本松城下の状況について概略的に述べてき
たが、本項では丹羽氏入府以降の城下の変遷について概説する。
 丹羽光重が白河から二本松城へ移るのは寛永二十年(1645)八月のことであ
るが、城下は十万余石の大名が家臣団を引き連れて入府するには余りにも狭す
ぎた。そこで、慶安三年(1650)年七月に城下町普請に取り掛かり、明暦三年
(1657)成就するまで7年の歳月を費やして、一応家臣団の居住空間を確保す
るだけの城下町の拡張をみている。この城下町拡大にともない、城山中腹に設
けられていた侍屋敷地が箕輪門前から栗ヶ作の内側、北条谷および竹田口の外
側福嶋道へと展開していくことになる。この結果、二本松城下の基本的骨格は
完成したとみてよく、城山・郭内武家屋敷地・竹田口外の足軽屋敷・郭外など
の往還沿い町人町といった空間構成が確立される。
 しかし、この時の城下町の拡張は大まかな構成を確立することだけに留まっ
ており、久保丁坂切通しの拡大、池の入り・亀谷の切通しを整備してはいるも
のの、御城山を中心とした軍事上最も重要な縄張りの細部には手を染めていな
い。
 その後、城下は度重なる大火などの災害に見舞われ(『近世二本松城下の災
害史』参照)、その修復とともに随時見附その他の石垣整備等がなされたよう
である。二本松城下の地形は東の福嶋道を除いた三方を丘陵地で囲われている
ため、用水の確保が重要な意味を持っていたのではないかと推測される。結果
としては、二合田用水から城内を等高線に沿って北条谷に導かれる水路ならび
に、『寛政絵図』にみられるような郭内の道路沿いに流れる用水によって水道
が確保されているが、当初は二合田の分水から何れも城内を本町に落下し、竹
田口に導かれる用水1本に頼らざるを得なかった。城内を横切って北条谷に用
水が導かれるようになり、郭内に複数の水路が引かれるようになったのは元禄
(1688〜1704)頃のことと推測される。しかし、水源の確保はなかなか困難を
極めていたのが実状のようであり、万治(1658〜1661)頃の用水整備が当時本
邦随一の算学者と謳われた磯村文蔵が測量をなした(『相生集』)結果、寛政
五年(1793)七月に竹田町用水も完成し(『めつら敷を記』)、最終的な用水
路網の整備を見たと考えられるが、それも地形の複雑さに起因する。町方の用
水も、やはり二合田からの分水で賄っていたが、これもほぼ同時期に造られた
ものと思われる。
 明暦三年(1657)、一応城下の普請は成就したものの、快適生活には程遠か
ったものと思われる。その後の城下町整備は永いこと用水路と屋敷地の整備に
腐心していることが、各種の絵図面から類推し得る。寛政三年(1791)に作成
されたと考えられる『寛政絵図』では城下防御の要ともいうべき諸門の整備が
遅れ、未だ冠木門のままであり、各城門の本格的整備は久保町坂の改修が行わ
れた天保年間(1830〜1844)まで待たなければならなかった。
 このような経緯を経て、漸う江戸時代も後半になってインフラの整備が整う
に至るが、次なる展開への進捗を望には、空間の中身への視点の転換が必要に
なる。
 寛政三年(1791)以前には一ノ丁の久保丁辻より東側に設けられていた会所
が、鉄砲谷奥の御徒歩部屋の北側に移され、さらに文化十四年(1817)には鉄
砲谷入り口桜馬場跡に移される。それに続いて、箕輪門前の当初内馬場とされ
ていた部分に学館および手習所が、会所の脇に新たに役所が設けられて、谷口
門と馬場先門との間は御城下新町として面目を一新する。
 一方、奥州街道沿いの足軽屋敷や町人町は、度重なる大火によって、その町
並みを整えることはなかなか難しかったようで、巡見使の記録では二本松の町
並みは一条で草・板葺であるとされている。このような情況の下に幕末を迎え
た二本松は、戊辰戦争において幕藩体制の維持を掲げる奥州連合に組したこと
から、官軍の攻撃を受け、郭内を全焼することになる。

明治以降の二本松旧町内

 戊辰戦争で郭内を全焼した二本松では、それまで郭内に居住していた藩士達
が各地に離散し、結局、奥州街道沿いの町人町が恰も街道集落のような様相で
残されてしまった。阿武隈川沿いの丘陵地の間を縫うようにして開かれた二本
松城下は、もともと限られた居住空間しか得られないような狭猥な土地であっ
たこともあろう、その間極端な人口の増減をみることなく今日に至っている。