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近世都市基盤成立の同時代的考察

1) 二本松城下の成立と歴史的経緯の概略

二本松城下成立前夜

中世二本松の概略図

 丹羽光重入府以前の二本松城下の様子は未だ明確にはされていないが、平成
2・3年の城址発掘調査(註1)およびその後の検証(註2)で朧気ながらそ
の全貌が見えてきつつある。その結果、二本松城の変遷は6期に渡っているこ
とが確認された。それを記すと次のようになる。

発掘調査の全容

発掘遺構

T 本城として地山をそのまま利用していた時代(16世紀)であり、石垣積よ
 る曲輪の整備はなされず、二間四方(南北46.20尺+42.90尺、東西44.55尺
 +52.80尺)の掘立柱の建物 および直径約 9.24尺の八角形の物見櫓を有し
 ていた。大手は新城舘と箕輪舘の間で現在と向きは逆。
U この時期に伊達成実入城、伝えられるような焼失の裏付けは得られない。
 梁間一間桁行三間(南北7.92尺、東西19.80尺)の仮設的建築物が認められ、
 この時期、家康・秀次の軍隊が止宿するに足るように城下の一部を拡大整備
 (註3)が行われる。
V 鉄炮谷大手および西谷大手の二つの大手を設けた(註3)時代で、Uの継
 続の時代。
W 元和八年(1615)〜寛永五年(1628)頃の一城代に統一された時代で、本
 丸南側一段下の大石垣ほか周辺野面積石垣の整備されたのもこの時代と推定
 される。建築物としては、身舎南北二間東西四間(26.40尺×13.20尺)に北
 側一間庇(36.30尺)付建物が検出され、東二間分には二階物見があった(註
 2)ものと推定される。この時点では南側正面が意識 されている。
X 二本松城の本丸が整備されたのは寛永五〜十八年(1628〜1643)の加藤明
 利統治時代のこと本格的縄張り整備であるり、この時期の縄張は天守閣の築
 造を企図していたが、これも寛永十八年に明利が没することで頓挫。乙森へ
 の付根の見附の石垣はこの時に築造されたものと考えられるが、正保三〜四
 年(1646〜1647)の絵図によれば、六間に渡って崩壊していたことが知られ
 る。
  この時期の城下の規模はW期までとは雲泥の相違で、関東道から馬蹄形の
 地形の西の一部を南北に突抜ける奥州道が、松坂の切通しを過ぎて、栗ケ作
 山(観音丘陵)に沿って東へ導かれるように変更された。すなわち、武家屋
 敷および町人町は、馬蹄形内の盆地で東西に平行していたのである。寺院は
 この平行した武家屋敷と町人町とを取囲むように配列されていた。この時期
 こそ、現在の二本松市街の骨格となる町割へのターニングポイントであり、
 軍事優先の集落から職人などの集住を前提とした集落形態への転換の契機に
 なったものと考えられる。町割は、軍事的施設の間を縫うような南北に延び
 る軸線から、大手を横に見て東西へ延びる軸線へと変化し始めている。
Y 丹羽光重による慶安元年(1648)からの縄張りおよび城下整備は、ほぼ現
 在の町割を完成させたと言っても過言ではなかろう。Wの時期では、城下南
 の観音丘陵を通過するにあたって、東側の江戸口および栗ケ作の二箇所の切
 通ししか整備されていなかったものを、さらに、池ノ入・亀谷といった二箇
 所の切通しを整備するに到っている。これによって、二本松の城下は、御城
 山から観音丘陵に続く馬蹄形の丘陵に挟まれた部分を武家屋敷地、観音丘陵
 の南側を町人町、といった具合に完全な空間分離がなされ、往還を行交う旅
 人は、江戸口から町人町を抜けて亀谷に到り、二本松城下の実態に触れるこ
 となく通り過ぎるという形態が生まれた。この結果、郭内は閑静な武家屋敷
 地、郭外はダイナミックな商工業地という性格付けがなされる(註4)こと
 になる。この時の城下整備を慶安二年(1649)の『古御奉書 写』で確認す
 ると、観音丘陵内(郭内)全体および北条谷の耕作地を侍屋敷とし、白河口
 切通し(松坂口)に門を築造、従前は狭い山道および作場道であった二ヶ所
 の南方の切通しに土手を築き、東の町口切通し(亀谷口)を往還につくり、
 東奥口(竹田口)に堀と土橋と二階門を、白河口北奥(西谷=本町谷)に芝
 手枡形を築造した(註5)ことが知られる。
  丹羽光重は、この時の縄張り拡大にともない、乙森付け根の石垣見附修復
 と同時に本丸南東の隅櫓の造営も企図していたものと推定される。しかしな
 がら、大天守も隅櫓もついぞ完成には至らなかった。時芦悪しくも明暦三年
 (1657)の袖振り火事による江戸城大天守の焼失という事態に直面したこと
 が、天守閣造営工事の遠慮となって顕われたものと推定される。しかし、こ
 うした出来事は、二本松城下町整備という点にに関してみる限り一時の現象
 で、寛政年間(1789〜1801)頃には各処御門および石垣の改築が行われ、天
 保三年(1832)には櫓門スタイルの坂下御門が築造されている。すなわち、
 明暦三年(1657)の二本松城下は一応の完成をみたというよりは一時休止と
 言った方がよいように思われる。

 以上みてきたように、二本松城下の整備は、二本松城の城内整備と時を同じ
くして進められてきたが、中世の本城には殆ど人が住んだ形跡は認められず、
加藤明利の統治時代に相前後して始まった縄張り整備は、結果的には石垣整備
のみで天守閣他の諸建築物整備にまではおよぶことがなかった。また、発掘結
果によれば、本丸には『寛文絵図』に描かれる井戸(湧き水は確認できないの
で集水井戸と推測)が確認されるも、生活関連の遺物類は全く発掘されていな
い(註1)。その他、建築物遺構についても、畠山氏統治時代の物見櫓と思し
き八角形建築物遺構、元和八年(1622)の二本松落城(本城焼失の痕跡は認め
られず)後に入場した伊達成実の仮屋らしき建築物遺構、其の後一城に統一さ
れた頃と思しき物見櫓をもつ建築物遺構などが発掘されている(註2)が、い
ずれの場合にあっても生活関連遺物は発見されていない(註1)。すなわち、
本丸が本城としての機能を有していた時代は、本城が純粋に軍事的目的として
のみ使用されたことと推定される。
 このことは、本丸周辺の地が平時の生活にはあまり適してはおらず、軍事的
重要度が薄らぐに従って生活の場が山裾に移るであろうことを予測させるもの
で、事実、江戸時代になって世の中が安定すると山上近くにあった侍屋敷は次
第に馬蹄形の丘陵地に囲まれた地(郭内)へと移行してゆく様子が、様々な絵
図類から確認される。
 本項では、二本松城下における丹羽氏入府以前の変遷過程を概略的に述べた
もので、それぞれの内容について詳細な検討がなされた訳ではない。また、次
項においては丹羽氏入府以降幕末までの城下の変遷につき、その概要を示すこ
とにする。

  註1)二本松市教育委員会『二本松城址T−平成2・3年度調査報告書』
  註2)狩野勝重・佐藤武王『二本松城本丸諸遺構について』日本建築学会
     研究報告集 1993.6 P25−30
  註3)狩野勝重『二本松城下町割の変遷について』日本建築学会大会学術
     講演梗概集 1991.9